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新しい私 見つけた/介護再び 女性の会主宰

  久田恵さん「ケアノート」
                新しい私 見つけた/介護再び 女性の会主宰
                              (読売新聞 平成21年10月11日)

作家の久田恵さん(62)は、父親の清明さんが昨年2月に91歳で亡くなるまで介護をしました。外出がままならず、仕事を制限しなければならなくなって悩みましたが、新たな生きがいを見つけ乗り切りました。

父の異変を感じたのは、2000年5月に母(美知さん)が亡くなって2年ほどたった頃です。自宅2階の母の仏壇に線香をあげに行かなくなりました。階段がつらくなったのかなと思っていたのですが、ある日、母の思い出話をしていると、「美知は死んだのか」と聞くのです。

その後、自宅の近くの喫茶店に何度も行くようになり、1日で支払いが数千円になることもありました。尋ねると「お前がいないから、探しに行った」と言います。


美知さんが亡くなるまでの約13年間、久田さんと清明さんは二人で美知さんの介護をした。理系出身で合理的な清明さんと、久田さんは、介護の方針を巡って事あるごとに衝突した。久田さんのこの介護経験は2003年に、ケアノートでも紹介した。

母が亡くなった後しばらくは、平和な日々だったのです。二人暮しになりましたが、母を失った傷をなめ合うように、全く言い争いはなくなりました。父は何かにつけ「離婚して戻ってきても、娘は良いものだ」などと言い、私も父の言うことを聞くようにしていました。

父は自分の死に備えなければと思ったようです。遺言を書き、銀行の貸金庫に家の権利書などを預け、私に鍵を開ける練習をさせました。それまでは独立した家計だったのですが、私を世帯主にし、通帳と印鑑も私に預けました。母の介護を通して、老いを免れることはできないと感じ、準備したのだと思います。母が亡くなった寂しさを紛らわせていたのかも知れません。父の喫茶店通いが始まったのは、遺言作成をやり遂げた後のことでした。


清明さんはその後、足腰が弱くなって転ぶこともあり、車いすを使うことが多くなった。用心のために紙おむつをはくようになり、中耳炎になったり風邪で熱を出したりすることが増えた。

家を空けることが難しくなりました。父が起きてから寝るまで、着替えを手伝ったり、紙おむつを替えたり。自分でスケジュールを管理していた父が「何をすればいいんだ」と聞くようになり、一つ一つ指示しなければなりません。ヘルパーさんを週に1度派遣してもらい、しのぐことになりました。要介護3でした。

介護そのものには、パニックにならずに向き合うことができました。母の介護を通じて、老いとはどういうものか、肌で感じていたからでしょう。

ただ気持ちは落ち込みました。母の介護が終わり、ノンフィクションの取材に戻れると思ったのに、家から出られない。2年間はほとんど仕事ができず、絶望的な気分でした。

介護する人は、自分の行き方に新しい価値を見いださないと、納得のいかない人生になる。今住む地域で、介護をしながら充実した気持ちでできることは何か考えました。

そして作ったのが、「ファンタスティックに生きる!」をテーマにした「花げし舎」という会です。介護に携わる女性らの癒しの場にしようと、月に1回、「アリスのお茶会」というのを始めました。自己表現の手段として、私が20歳代のときにやっていた人形劇も始めました。

テレビを見ても喜ばなくなっていた父に、人形劇を見せたら、「よろしい、よろしい」と言って喜んでくれました。私が20歳代の時は、まったく関心を持たなかったのに。


清明さんは2004年7月、美知さんも過ごした自宅近くの有料老人ホーム「シルバーヴィラ向山」に入居した。ヘルパーさんの手を借りて、車いすで自宅と行き来することもあった。


0歳を越えた頃から、父は仏さまのようになりました。私が何を言っても、「よろしい」。悟りを開いたように、現実を淡々と生きているようでした。人生の幕を引く態勢を整えていたのだと思います。

最後は要介護度が5になって、なにも話さなくなり、水も飲めなくなりました。入院して、胃に穴を開けて直接栄養を補給する「胃ろう」をする方法もありましたが、それはせず、父に言われていた通り、ホームでみとることにしました。父の考えた通りになったし、私も手を尽くせたと思います。

私自身の老後の生きる道も見つかりました。今は、人形劇を通して子育て支援をできるようなNPO法人の設立に向け、動いています。これも父のお陰です。介護のような困難な時でも、何らかの前向きなことができる。そう信じていいのではないかと、今は感じています。


ひさだ・めぐみ 作家。1947年、北海道生まれ。上智大学文学部中退。1990年、「フィリッピーナを愛した男たち」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に美知さんの介護を描いた「母のいる場所 シルバーヴィラ向山物語」がある。近著に「家族がいてもいなくても」。

<取材を終えて>
久田さんは、両親が自身の姿を通して、「こう老いて死になさい」と教えてくれたのだと感じているそうだ。「私も無意識のうちに、参考にしながら生きていくだろうと思います」と、取材の終わりに話していた。「元々は社会派の人間ではなく、無理をしていたのだと思う」と、最近はノンフィクション取材から遠ざかっているというが、記者は、清明さんとの最後の日々についての作品をぜひ読んでみたいと思う。

                                           (聞き手・西内 高志)


      (平成21年10月11日 読売新聞 ケアノート)


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